いのちを、つなぐ

参考資料

このゲームの史実部分は、以下の資料で確かめられた範囲で描いています。

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史実・伝承・創作の区別

史実は資料で確かめられること、伝承は「〜といわれる」という話、創作はゲームのために補った部分です。

章史実伝承創作
序章1810年 備中国足守藩の藩士・佐伯瀬左衛門(惟因)の三男として生まれる、幼名は騂之助、8歳(1817年)で天然痘にかかる、天然痘は疱瘡・痘瘡ともよばれた、1825年2月に元服、同年10月 父が足守藩大坂蔵屋敷の留守居役となり、ともに大坂へ体が弱く、武士には向かなかったといわれること(ゲーム内でも「いわれる」と表示)父・母・町の医者・近所の子のセリフ、熱を出す場面の様子
第一章1826年 中天游の私塾「思々斎塾」に入り、約4年間蘭学(とくに医学)を学ぶ、大坂は「天下の台所」とよばれ諸国の蔵屋敷が集まった—中天游・町の人・漢方医のセリフ、医者になると決める場面
第二章1831年 江戸で坪井信道に学び、宇田川玄真にも学ぶ、宇田川玄真が「膵」「腺」の字を作ったとされること、1836年 長崎に遊学し出島のニーマンのもとで医学を学ぶ(Wikipediaの記述にもとづく)、このころ「洪庵」と号する、鎖国下で西洋の学問はオランダ語の書物から学ばれた—坪井信道・宇田川玄真・兄弟子のセリフ、出島の場面(イメージ)
第三章1838年春 大坂に戻り、津村東之町(いまの瓦町)で開業、同年 適々斎塾(適塾)を開く、号「適々斎」が塾名の由来、同年 八重と結婚、1845年 過書町(いまの北浜)の商家を買って移る—八重・母親・町の人のセリフ、ウタガイとの問答
第四章ヅーフの写本が塾に一冊しかなく、塾生が順番に引きに集まったこと、会読と○●△の採点(3か月以上最上席で上級へ)、1846年 村田蔵六(大村益次郎)入門、1849年 橋本左内入門、1855年 福沢諭吉入門、1857年 福沢が塾長に塾生が一人畳一枚ぶんで寝起きし、成績のよい者から場所を選べたといわれること、ヅーフ部屋の灯りが消えなかったという話塾生のセリフ、会読ミニゲームの出題(オランダ語の基本単語をもとにしたゲーム用の問題)、ウヌボレとの問答
第五章1796年 ジェンナーの牛痘種痘、1849年 京都に7日間とどまって牛痘の苗を手に入れ、大坂・古手町に除痘館を開く、苗を子どもから子どもへ植え継いだこと、「牛になる」といううわさに苦労したこと、1850年 足守除痘館、各地の分苗所、1858年 幕府が種痘を公認—母親・子ども・使いのセリフ、苗リレーのミニゲーム(植え継ぐ日数はゲーム用に単純化)
第六章1857年ごろ フーフェラントの書を訳した『扶氏経験遺訓』を刊行しはじめる、その巻末の医者の心得を十二か条にまとめた『扶氏医戒之略』、1858年 コレラ(コロリ)の大流行、西洋の医書をもとに5、6日で『虎狼痢治準』を書き、100部を医者に無料で配る—町の人・医者たちのセリフ、手引き書を届ける場面、オビエとの問答
終章1862年 幕府にまねかれ、はじめは体を理由にことわる、奥医師と西洋医学所頭取となる、同年12月 法眼、1863年6月10日 江戸の医学所の役宅で喀血し死去・享年54、適塾の姓名録に636名、入門者はおよそ3000人と伝えられる、1868年 適塾閉鎖、大阪大学へとつながる、主な塾生(福沢諭吉・大村益次郎・橋本左内・長与専斎・佐野常民・高松凌雲・大鳥圭介・箕作秋坪)、1980年 WHOが天然痘の根絶を宣言八重が塾生から母のようにしたわれたといわれること使い・八重・塾生のセリフ、姓名録の画面(イメージ)、塾生クイズ、タメライとの問答
全編オランダ語から日本語に入ったことば(ガラス・コップ・ゴム・メス・ピンセット・ポンプ・ランドセル・オルゴール)—心と病の「ムシ」(ヨワキ・ウワサ・オビエなど)との問答バトル、顕微鏡のレンズの中の背景、どうぐとわざの仕組み

ウェブ資料

原典

おことわり

このゲームはフィクションの結末を入れず、史実の生涯を描いています。会話の細部は物語として補っています。日付は和暦(旧暦)のまま書いています(たとえば没日の文久3年6月10日は、西暦では1863年7月25日にあたります)。苗リレーの日数や、病気・治療の描き方は、子どもにもわかるよう単純にしています。誤りに気づいた方は、制作者までお知らせいただけるとうれしいです。